鷹のぼせの独り言

外科系医療者で3児の父親です。ご覧のとおりの“鷹のぼせ”です。医療、教育、書評、そしてホークスについて熱く語ります。

多様性の中の調和を目指す

平田オリザ著「わかりあえないことから〜コミュニケーション能力とは何か〜」を読みました。昨今、社会でも学校でもコミュニケーション能力をややヒステリックに求められるケースが多いと思います。日本のコミュニケーション教育は、あるいは従来の国語教育でも、多くの場合それは「わかりあう」ことに重点が置かれてきました。著者はその「わかりあう」という点に強い疑問を持っており、真のコミュニケーションとは本来「わかりあえない」ところからスタートするのではないか、と考えています。また、わかりあえないからこそ、少しでも共有出来る部分を見つけた時の喜びについても述べています。逆説的であり、一風変わったタイトルに惹かれて読んでみました。

 

グローバル化した世界における日本の立ち位置

 日本には、その文化の独自性ゆえに文化の内容を「わざわざ」他の言語(英語が多い)に訳して伝えなければならない煩わしさがあります。しかし著者は日本語同士なら理解し合える感覚を「わざわざ説明する」ことは「虚しい」行為であると述べています。しかしその一方で、虚しさに耐えて説明する能力が今求められていると主張しています。この能力は「対話の基礎体力」であり、異なる価値観に出くわした時にも物怖じせず、卑屈にも尊大にもならず、相手と共有できる部分を粘り強く見つけ出していく努力が必要だと述べています。

 

私たち日本人は、国際社会の中で少なくとも少数派であるという自覚を持つ必要がある。またそこで勝負をするなら多数派に合わせていかなければならない局面が多々出てくることも間違いない。ただそれは、多数派のコミュニケーションをマナーとして学べばよいだけだ。魂を売り渡すわけではない。相手に同化するわけでもない。コミュニケーション教育、異文化理解能力が大事だと世間ではいうが、それは日本人が西洋人、白人のようにしゃべれるようになれということではない。欧米のコミュニケーションがとりたてて優れているわけでもない。だが多数派は向こうだ。多数派の理屈を学んでおいて損はない。

 

これはあたかも外国人とのコミュニケーションを前提とした主張ですが、私は外国人のみならず、自分とは価値観の異なる人、もっと言えば自分以外の人々とのコミュニケーションの基本なのではないかと思うのです。職場の人間関係であったり、友人、恋人でもあったり、もっと言えば自分の家族にも当てはまる問題なのではないかと。

 

いったん個人に立ち返ってみる:「演じる」とは

では個人レベルでコミュニケーション能力を上げるには、どのようにすれば良いのでしょうか? 著者は逆説的ながら的を得た考えを示しています。

 

人々は父親・母親という役割や、夫・妻という役割を無理して演じているのだろうか。多くの市民は、それもまた自分の人生の一部として受け入れ、楽しさと苦しさを同居させながら人生を生きている。そのような市民を作ることこそが、教育の目的だろう。演じることが悪いのではない。「演じさせられる」と感じてしまった時に問題が起こる。ならばまず主体的に「演じる」子どもたちをつくろう。

 

冗長率とは

冗長率という言葉がある。一つの文章、一つの段落にどれくらい意味伝達とは関係のない言葉が含まれているかを数値で表したものだ。もっとも冗長率が高くなるのは、会話ではなく「対話」である。対話は異なる価値観をすりあわせていく行為だから、最初はどうしても当たり障りの無いところから入っていく。私たちが「あの人の話は説得力がある」と感じるのは実は冗長率が低い人に出会った時ではない。冗長率を時と場合によって操作している人こそが、コミュニケーション能力が高いとされるのだ。日本の国語教育は、この冗長率を低くする方向だけを教えてきたのではなかったか。だが、本当に必要な言語運用能力は冗長率を低くすることではなく、それを操作する力なのではないか。

 

僕はこの部分に多少なりとも衝撃を受けました。これまで常識として考えられてきた国語教育の基本的概念は、現代において崩壊しようとしているのではないかと。

個人から世界へ:多様性の中の調和を目指して

日本はほぼ単一の言語を用いているのに対して、ヨーロッパでは多くの文化や宗教が共生している多文化共生社会といえます。そのような社会ではバラバラな個性を持った人間が全員で社会を構成していかなければなりません。例えばフィンランドの教育においては、良い意見を言った子どもよりも、様々な意見を上手くまとめた子どものほうが高い評価が得られるのだそうです。恐らく世界的に今後子どもたちに求められる能力とは、グローバル・コミュニケーション・スキル(異文化理解能力)です。

 

その中でも重視されるのが集団における「合意形成能力」あるいはそれ以前の「人間関係形成力」である。成長型の社会では、ほぼ単一の文化、ほぼ単一の言語を有する日本民族は強い力を発揮した。しかし成熟型の社会では、多様性こそが力となる。 

 

日本のこれからの方向性としては、多様性の中の調和を図るようにしなければならないと思います。しかしそれは個人的レベルで「習慣」をつけておかないとすぐに到達できる目標ではありません。小学生の頃より英語教育が始まったとしても、日本国内であれば、異なる民族が入り混じったモザイク社会で生きるわけではありません。また移民を多数受け入れる社会体制が整っているわけでもありません。海外の人々が様々なレベルで日本社会で仕事を獲得し、生活をしていく上で必ず壁になるのが「日本語」の存在だろうと思います。ひらがな、カタカナ、漢字も含めてマスターし、読み書きが出来る様になるには、相当の努力と長い年数を必要とするし、周囲の日本人もそれを受け入れるだけの度量(懐の深さ)が求められます。しかし現在の日本社会に果たしてそれだけの余裕はあるのでしょうか? すべての日本人が同じような高い意識を共有することは出来そうにないと思います。我々日本人の中にもそのような「多様性」を有しています。そんな社会情勢で調整能力をいかんなく発揮できるのは、相当のカリスマ性を持ったリーダーだと思うのですが、いかがでしょうか? そんなあれこれを考えさせられた1冊でした。