鷹のぼせの独り言

外科系医療者で3児の父親です。ご覧のとおりの“鷹のぼせ”です。医療、教育、書評、そしてホークスについて熱く語ります。

指導について上司と部下が共有すべき認識とは

手術は見て盗め

「神の手」と呼ばれる名医であっても全ての手術を最初から1人でこなせるわけではありません。解剖・疾患の知識は勿論、手術器具の情報、手順のイメージトレーニング、トラブルシューティングなど準備が必要となります。はじめは上級医の助手として手術に立ち会い、症例数をこなした後に、術者として独り立ちし執刀することになります。1人の術者が育つ、あるいは術者を育てるには教育が必要になります。今日はその教育・指導について考えてみたいと思います。

 

やってみせ、言って聞かせて、させてみせ、

ほめてやらねば、人は動かじ。

話し合い、耳を傾け、承認し、任せてやらねば、人は育たず。

やっている、姿を感謝で見守って、信頼せねば、人は実らず。

 

これは太平洋戦争時、連合艦隊司令長官山本五十六の言葉です。何だか読んでいて切なくなるのは僕だけだろうか? 師匠が弟子に指導をしても、「笛吹けど踊らない」弟子に対して、師匠が弟子のところまで降りて行ってご機嫌まで取らないと弟子は育たない、と切ない気持ちになります。逆に言うと「人を育てることは難しい」、と教えてくれる言葉です。一昔前の外科の世界では、指導医が手とり足とり手術を教えてくれることはほとんどありませんでした。手術に助手として参加する際に「見て覚えろ」「技術を盗め」と言うのが暗黙の了解でした。また手術室に入らないと学べないこともあるので、自分の担当の手術でなくても可能なかぎりは手術室に入り見学し学んで行く姿勢が求められました。

 

現在も基本的にはその方針がベースにありますが、以前に比べると手術のビデオ・DVDが容易に見られるようになった。全国の名医と言われる先生たちの手術がwebセミナーやオンデマンドで見られるようになっており、ネット社会の恩恵が得られるようになっている。また若手の教育の一環として手術のビデオシンポジウムなどが学会のプログラムに盛り込まれるようになり、手術の教育を積極的に進めよう、という指導者側の姿勢が表れるようになっています。このような教育・指導の問題は一般社会においても共通だと思います。

 

上司と部下のズレ 

 

上司から「自分で考えろ」「いちいち聞かないで自分でやれ」といわれても、経験が浅いのだから疑問だらけ。ミスをしたら上司に迷惑がかかるし、丸投げされても困る。だから、もっと指導してほしいという部下の戸惑いもわかります。しかし、この時点ですでに両者のすれ違いが存在しています。

昔は上司が具体的に教えてくれることは少なく、部下は先輩の姿を観察して自分で覚えたもの。医療者の現場と同じです。だから上司のなかにあるのは、「自ら観察し、考えて学ぶ力がある者が這い上がって行く」というイメージ。しかし反面、手取り足取りていねいに教える学校教育で育ち、自ら学ぶ力が育っていないのがいまの若手。だとしたら、彼らにいきなり「自分で考えろ」といっても混乱させるだけ。どんな仕事でも最初は、具体的な指示を与えるようにすべきだそうです。また、ひととおり説明したのち、相手がしっかり理解しているかを確認しておくことも大切。伝わっていなければ、満足のいく結果にならないことは目に見えているからです。そして、伝わったと確認できたら、「わからないことが出てきた場合は相談するように」と伝え、任せることが大切だといいます。まさしく山本五十六の言葉通りの指導が望まれるのです。噛んで含んで口移しするぐらいの丁寧さがないと部下は育たない社会になっているのでしょう。

 

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じゃあ、部下の態度はそのままでいいの?

外山滋比古著「思考の整理学」には以下の様なフレーズがあります。

 

(師匠は)秘術は秘す。いくら愛弟子にでもかくそうとする。弟子の方では教えてもらうことはあきらめて、なんとか師匠のもてるものを盗みとろうと考える。ここが昔の教育のねらいである。学ぼうとしているものに、惜しげなく教えるのが決して賢明でないことを知っていたのである。
師匠の教えようとしないものを奪いとろうと心がけた門人は、いつのまにか、自分で新しい知識、情報を習得する力を持つようになっている。昔の人は、こうして受動的に流れやすい学習を積極的にすることに成功していた。
それに比べると、いまの学校は、教える側が積極的でありすぎる。親切でありすぎる。それが見えているだけに、学習者は、ただじっとして口さえあけていれば、ほしいものを口へはこんでもらえるといった依存心を育てる。学習者を受け身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。
問題を与えられて解答を出すのは、まだまだ受動的である。問題という枠の中でこそ積極的ではあるが、問題そのものは他から与えられたもので、自分で考えだしたのではない。ギリシャ人が人類史上もっとも輝かしい文化の基礎を築き得たのも、かれらにすぐれた問題作成の力があり、“なぜ”を問うことができたからだといわれる。 

 

部下のとるべき態度はまさしくこの文章に凝縮されていると思います。自らが積極的に「問う」姿勢が求められるのです。

 

僕らは教える側でもあり、教えられる側でもある

我々の多くは指導する立場でもあり、また指導される立場でもあります。だから時には師匠となり、時には弟子を演じ分けなければなりません。山本五十六の言葉のように細かな配慮をもって指導にあたるとともに、自らは決して受け身ではなく積極的に「問い」の姿勢をもって、一段と高い心境で仕事に取り組む姿勢が求められるのではないでしょうか。一方で、教える人と教えられる人の認識が一致した時、クリエイティビティが上がり、組織としても強固な礎が出来上がるのだと思います。

 

以上、鷹のぼせの独り言でした。

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

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